道義不在の時代

道義不在の時代

 本書に収めた論文の主題は樣々だが、防衞を論じ、教育を論じ、韓國を論じて、私の關心事は一つであつた。すなはち「道義的とは何か」といふ事であつた。だが、前著『知的怠惰の時代』にも書いたやうに、「道義的であるといふ事は、美しい事を言ふ事ではない。常住坐臥、美しい事を行ふ事でもない。それはまづ何よりも、美しい事をやれぬおのれを思ひ、内心忸怩たるものを常に感じてゐる事」なのであつて、片時もさういふ事を忘れずして、私は反韓派知識人や猪木正道氏や石川達三氏や「女王蜂」を斬り、全斗煥氏や申相楚氏を稱へた積もりである。おのれの中に間違ひなく愚物や破廉恥漢もゐるからこそ、私は知的・道義的に怠惰な手合が許せなかつたし、全斗煥氏の膽力や申相楚氏の磊落がおのれに缺けてゐるからこそ、私は兩氏を稱揚した。肖りたいと思つたからである。



目次

廉恥節義は一身にあり――序に代へて

一 教育論における道義的怠惰
 1 僞りても賢を學べ
 2 まづ徳育の可能を疑ふべし

二 防衞論における道義的怠惰
 1 道義不在の防衞論を糺す
 2 猪木正道氏に問ふ

三 日韓關係における道義的怠惰
 1 全斗煥將軍の事など
 2 反韓知識人に問ふ

四 對談
 日本にとつての韓國、なぜ「近くて遠い國か」
 申相楚(大韓民國國會議員)/松原正

昭和五十七年三月 ダイヤモンド社  百九十一頁 定價1,200圓(絶版)
(カヴァー畫像提供・岡田俊之輔先生
 


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