夏目漱石・中卷の書評


時事評論<石川> 平成十一年十二月二十日

漱石論と言論の不自由

 早大教授、松原正氏の『夏目漱石 中卷』(地球社)が十月十日發行された。平成七年に出た『上卷』から四年、待ち望まれてゐた著作だつた。これまで多くの漱石論が積み重ねられたが、松原氏の著作はそれらの全てを超へてゐる。今世紀初頭、『外發的』で『皮相、上滑り』な日本の文明開化の中で『自己本位』の確立に悲慘な苦鬪を繰り返した漱石の偉大さを、これほど見事に評價した『漱石論』は例を見ない。今世紀中にそれを讀める幸せをまだ味はつてゐない讀者に推奬したい。
 十月十四日付の朝日新聞日曜版は連載企畫『100人の20世紀』の九十三人目に『夏目漱石』を取り上げたが、二つの疑問を感じた。まづ、文末の『もつと知りたい人は』といふ文獻紹介の欄に『江藤淳著「漱石とその時代」』があつて『松原正著』のないことだ。
 第二の疑問は朝日の記者は漱石を眞に尊敬してゐるのか、誰かの意見の拜借ではなく、自分の頭で考へた結果の尊敬なのか、である。
『100人の20世紀』の中で漱石は"朝日に在籍した人"といふ點で特殊だ。漱石の偉大な苦鬪は家族にも友人にも弟子にも、朝日人たちにも理解されなかつた。眼前に存在した偉大さが見えなかつた先輩朝日人の至らなさを、後輩は今どう考へるのか。同時代に同じ社にゐながら分からなかつた偉大さが、なぜ今は見えるのか.本當の答へが知りたい。
 今囘の記事は、博士号を拒否し西園寺公の招待を斷つた漱石を『變人』呼ばはりした讀賣新聞を批判した。だが、同時代の朝日人も漱石の偉大さを實感しなかつたのだし、今でも『朝日新聞百年史編修委員會』は漱石を評價してゐない。それを棚に上げての讀賣非難は安易に過ぎる。この委員會が編修した『朝日新聞社史 明治篇』(平成七年、一般に賣り出された)を讀めば分かる。六百頁餘のうち約三十頁を『漱石』に割き、量的には重視してゐるやうで、漱石の眞價を讚へてゐる箇所は見當たらない。特に『朝日巡囘講演會』における漱石の講演の記述はひどいものだ。大阪朝日の名の下に漱石が講演した『現代日本の開化』などは、朝日の社説が束になつても屆かないほど高い價値を持つ歴史的な評論だが、社史はイベントの『豫想外』の大成功と片付けた。
 社史は言ふ。朝日の人間ばかりで編成された講義班の中で漱石が『最も難解であらうといはれてゐた』が、「ふたをあけてみると豫想に反して、明快な論旨で聽衆を感動させたばかりか、ときにはユーモアをまじへて會場をわかせた』『聽衆はその充實した内容と巧みな話術にひきこまれ、これを報じた大朝の記事も「破るるばかりの拍手を以て迎えられ」、「急霰の如き喝采の裡に降壇したと記してゐる』のみで、日本の文明開化は『外發的』なために『皮相、上滑り』だとの極めて重要な指摘などは完全無視である。朝日の講演擔當者は『豫想』の段階で漱石の論の價値を知らず、講演を聞いた後も感動してゐないことが明白だ。後世の百年史編修委員會も當時の謬見を追認してゐるのと同然の記述だ。
 ここで第一の疑問に戻るが、松原氏は四年前の『漱石 上卷』ですでに江藤淳氏らの 漱石論の誤謬を片端から論證し批判した。論爭で常に勝つた福田恆存氏でさへ、弟子の松原氏に、豐富で的確な引用の祕密を尋ねたほどだから、松原氏の漱石論なで斬りが斯界の關心事にならなかつたはずはない。それを無視する理由もまた、自分の頭で判斷しての結果なのか。日本の言論は不自由だ。(柴田裕三)


「正論」 平成十一年十二月號

 孤高の書であり、また苛烈な書でもある。夏目漱石の道徳的苦鬪の激しさに焦點を當て、江藤淳の漱石論に痛烈な批判を加へた上卷に續く本書は、「虞美人草」から「思ひ出す事など」までを取り上げ、漱石の愛への慾求と、その挫折を丹念に描いてゐる。
 漱石にとつて自己は掛け替へのないものであり、自己本位を貫いて生きるのでなければ、生きてゐる事は無意味であつた。しかし、自己本位に徹しようとして漱石は他者に愛される事を希求せずにいられなくなる。その二つの慾求がもたらす葛藤は、わが國近代文學史上類例のないものであり、それこそが漱石の偉大であり悲慘なのだと著者はいふ。
 漱石を論じつつ著者が見てゐるのは、日本と、日本人のありやうなのだ。舊假名・舊漢字の文體が魅力の一つでもある。


「月曜評論」 平成十二年一月號

「自己本意」と「愛への慾求」との葛藤を核に据ゑ、全く新しい觀點から描かれた漱石論の、長く刊行が待たれてゐた中卷であり、「虞美人草」から「思ひ出す事など」まで、六作品が取り上げられてゐる。
 著者の松原正氏は以前、「ドストエフスキーや鴎外に、核戰爭に反對かどうか、ロッキード裁判や校内暴力をどう思ふか、(中略)さういふことを一度問ひただしてみたいと讀者は思はないか」と書いたことがある。「所謂時事問題」を論はなくなつて久しい氏に、最近の世相について「問ひただしてみたい」と思ふ人が、本誌讀者には少からずをられるだらう。
 が、教育、日韓關係、自衞隊など、樣々の主題を論じた末に、還暦を過ぎた氏が本格的に取り組んだのが他ならぬ漱石文學であつたことの意味を、吾々はもう少しよく考へてみるべきなのではあるまいか。
 百年近く前に漱石を惱ませた問題は現代日本に於ても變らず切實なのであつて、若き日に齧つた切りの漱石作品に改めてじつくり對峙してみることは、誰にとつても間違ひ無く意義深い經驗である筈だ。そしてその際に、最良の手引きとなつてくれるのが本書である。
 これを熟讀する讀者は、嘗て「所謂時事問題」を飽くまで本質的に論じてゐたのと同じあの松原氏が、確實にそこにゐることを發見するであらう。さうなれば、昨今マス・コミを賑はせつつある諸々の事どもについての氏の考へも、或いは炙り出されて來るかも知れない。一讀をお勸めするゆゑんである。(もののふ)
 



「時事評論」と「正論」の資料は長谷川宏さんに御提供いたゞきました。
 


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